現在、戸籍で判明する先祖のほか、冨田家の江戸期以前の直系尊属数千人が見つかっています。
冨田家は、古代より戦国時代末期に伊達政宗に敗れて相馬中村藩へ敗走するまで約1000年間にわたって福島県郡山市富田町に城を持ち、阿尺国造・安積郡司・恵日寺有司・蘆名四天王(四大家老)などを代々務めながら郡山や会津の一部地域を支配していました。安積国造神社に天湯津彦命・比止禰命以来の古代の先祖がまつられており、中世頃の先祖は会津の恵日寺等にまつられ、江戸期は南相馬市の長松寺にまつられています。
本姓は、室町時代までは阿倍安積臣丈部氏でしたが、会津領主芦名氏より夫婦養子を迎えたため桓武平氏良文流三浦氏流に、相馬中村藩に移ってから伊達氏庶流の婿養子を迎えたため、以降、現在に至るまで代々藤原北家山陰流伊達氏庶流 藤原朝臣です。男系の最も古い先祖は、天岩戸隠れに登場する天児屋命となっていますが、藤原氏第二代藤原不比等が実は天智天皇の落胤であるとする説が長く信じられてきました。従って、天智天皇落胤説が本当であれば、天照大神にまで遡ることになります。
そのほか、木下家・佐久山白石家などについても江戸期の先祖が判明しつつあります。
木下家は、木下謙二の婿入りにより、謙二以降については藤原北家山陰流伊達氏庶流木下氏 藤原朝臣となりました。
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